第6章 生命の謎を解く
どの文化にも、生命の始まりについて、大切に育まれてきた神話がある。人々はよく、地球上の華々しく豊かで多様な生命をどうしたら説明できるだろうかと考えてきた。たとえば聖書では、神が天地を6日で創造したとされている。神は自分の似姿として人を 塵 《ちり》 から創り、それに命を吹き込んだ。神はあらゆる動植物を創り、人に治めさせた。
ギリシャ神話では、初めに形のないカオス〔混沌の神ともされる〕 と虚空しかなかった。だが、この広大な空っぽの状態から、大地の女神ガイア、愛の神エロス、光の神アイテルなどの神々が生まれた。それからガイアと夜空の神ウラノスが結ばれると、地球に棲まう生き物が創られた。
生命の起源は、古今を通じて指折りの謎のひとつかもしれない。この問題は、なによりも宗教や哲学や科学の議論で中心となってきた。これまでずっと、深い洞察をする思想家の多くは、無生物に命を吹き込める謎めいた「生命力」があると考えていた。それどころか、多くの科学者は、生命が無生物からひとりでに魔法のように生じる自然発生というものを信じていた。
19 世紀になると、科学者は、生命の出どころについて、多くの手がかりをつなぎ合わせることができた。ルイ・パストゥールらが注意深くおこなった実験では、それまで一般に考えられていたのと違い、生命は自然発生しないことが立証できた。パストゥールは、水を沸騰させることで、生物が自然に生じない無菌の環境を作れることを示したのである。
現在でも、生命がほぼ40 億年前に地球で最初にどのように生まれたかについては、われわれの理解に多くの空白がある。実のところ、この問題を解き明かすために、原子レベルでおおもとの生物学的・化学的プロセスを解析するとなると、デジタルコンピュータは役に立たない。単純きわまりない分子のプロセスでも、デジタルコンピュータの能力ではすぐにとうてい及ばなくなる。しかし、量子力学ならそうした理解の空白の多くを説明し、生命の謎の解明につなげられるかもしれない。量子コンピュータはこの問題にうってつけで、いまや分子レベルで生命の奥深い秘密をいくつか解き明かしはじめている。
ふたつのブレイクスルー
1950年代に、ふたつのブレイクスルーが起きて、生命の起源の研究をさらに進めるための課題が示された。最初のブレイクスルーは1952年、シカゴ大学の大学院生スタンリー・ミラーが、ハロルド・ユーリーのもとで研究していて単純な実験をおこなったときに起きた。ミラーは、まずフラスコに入った水を用意し、メタンとアンモニア、水素などからなる、原初の苛酷な地球の大気を模していると考えた有毒な調合物をそれに加えた。この系にエネルギーを加えるために(稲妻や太陽からの紫外線を模していたのかもしれない) 、電気で小さな火花も散らした。そして1週間、その実験から離れていた。
やがて戻ってきた彼は、フラスコのなかに赤い液体を見つけた。注意深く調べてみると、着色の原因はアミノ酸であることがわかった。アミノ酸はわれわれの体のタンパク質を構成する基本要素だ。つまり、生命の基本的な素材が外からの関与なしにできたのである。
それ以来、この単純な実験は、何百回となく繰り返されて変化も加えられ、生命を生み出したとおぼしき太古の化学反応を科学者たちに垣間見させた。たとえば、海底の熱水噴出孔で見つかる有毒な化合物が、生命の最初の化合物を作り出す基本的な要素を提供し、さらにそうした火山熱水系が、その化合物を生命に必須のアミノ酸に変えるエネルギーを与えたという可能性が考えられる。じっさい、地球上でとりわけ原始的な細胞がいくつか、海底の火山熱水系のそばで見つかっている。
今では、生命の構成要素をいかに簡単に作れるかがわかっている。アミノ酸は、何千光年も離れたガス雲や、宇宙空間から落ちてきた隕石のなかにも見つかっている。炭素が基本のアミノ酸は、宇宙全体で生命の 種 《たね》 を形成しているとも考えられる。そしてこのすべては、シュレーディンガー方程式が予言するとおり、水素や炭素や酸素の単純な結合特性によるものなのである。
すると、量子力学を用いれば、地球に生命を生み出した量子論的なプロセスを、段階的に明らかにできるはずだ。初歩的な量子論から、ミラーの実験が非常にうまくいった理由がわかるし、それはまた将来のさらに深遠な発見に道をつけてくれるかもしれない。
第一に、量子力学をもとに、アミノ酸を作るためにメタンやアンモニアなどの化学結合を断ち切るのに必要なエネルギーが算出できる。量子力学の方程式は、十分にそれができるだけのエネルギーが、ミラーの実験のような電気火花にあることを示している。そればかりか、そうした化学結合を断ち切るのに必要な活性化エネルギーがなんらかの理由ではるかに大きかったなら、生命は現れなかったはずだということも示している。
第二に、炭素には6個の電子がある。2個は第1レベルの軌道にあり、残りの4個は第2レベルの軌道の4つのスペースに別々に入っている。このおかげで、4つの化学結合を作る余地がある。4つの結合をもてる元素は周期表のなかで珍しい。しかし、量子力学の法則がこの構造に炭素や酸素や水素の長く複雑な鎖を作らせて、アミノ酸ができるのだ。
第三に、こうした化学反応は水(H2 O) のなかで起こる。水はるつぼのような役目を果たし、そのなかで異なる分子が出合い、複雑な化合物を形成する。量子力学にもとづけば、水分子は山形をしていることがわかり、ひとつの酸素原子を頂点に2個の水素原子が互いに104・5度の角度をなしていると計算できる。すると、水分子の実質的な電荷がその分子のまわりに偏って分布していることになる。この電荷が十分に大きいので、ほかの化合物の弱い結合を断ち切る結果、水は多くの化合物を溶かすのだ。
このように、基本的な量子力学から生命の条件を作り出せることがわかる。だが次の問題は、ミラーの実験を超えて、量子論からDNAを作り出せるかどうかがわかるのかだ。さらに、量子コンピュータをヒトゲノムに用いて、病気や老化の秘密を解き明かすことはできるのだろうか?
生命とは何か?
ふたつめのブレイクスルーは、量子力学から直接訪れた。1944年、すでに波動方程式で名を馳せていたエルヴィン・シュレーディンガーが、『生命とは何か』〔岡小天・鎮目恭夫訳、岩波書店〕 という独創的な本を著した。そのなかで彼は、生命そのものが量子力学の副産物で、生命の設計図が未知の分子にコードされているとする驚くべき主張をしていた。多くの科学者が、謎めいた「生命力」があらゆる生物に命をもたらしているとまだ考えていた時代に、シュレーディンガーは、量子物理学の応用によって生命を説明できると訴えたのである。波動方程式の解を調べることで、生命は純粋数学に従い、謎めいた分子によって手渡されるコードの形をとって生じるのではないかと彼は考えた。
それは突拍子もない考えだった。ところが、物理学者のフランシス・クリックと生物学者のジェームズ・ワトソンというふたりの若き科学者が、これを挑戦ととらえた。生命の礎がなんらかの分子に見出されるとしたら、ふたりがやるべき仕事は、その分子を見つけて、それに生命のコードがのっている事実を明らかにすることだったのだ。
「シュレーディンガーの『生命とは何か』を読んだときから、私は遺伝子の秘密を解き明かすべく方向づけられた」とワトソンは思い返している[1 ] 。
クリックとワトソンは、シュレーディンガーが想定したように、生命の分子が細胞核の遺伝物質にひそんでいるにちがいないと考えた。そして細胞核の多くは、DNAという化合物で構成されている。だが、DNAのような有機分子はとても小さい(可視光の波長にも及ばない) ので、見ることができず、ふたりの仕事は困難に思われた。そこで彼らは間接的な手段を選び、X線結晶構造解析という量子論にもとづく手法を用いて、この謎の分子を明らかにしようとした。
X線は、可視光と違って、原子のサイズよりも短い波長になりうる。すると、おびただしい数の分子がなんらかの格子状に配置された結晶にX線を照射すると、散乱したX線が独特の干渉パターンを作り出し、それを写真に収められる。熟練した物理学者がその写真乾板をよく調べると、どんな結晶のパターンがそのイメージを生み出したのかを明らかにすることができる。
ロザリンド・フランクリンが撮影したDNAのX線写真をひと目見るなり、クリックとワトソンは、そのパターンを作り出す構造が二重らせんにちがいないと気づいた。DNAの全体的な構造が二重らせんで、2本の階段が互いに巻きついたような形だと知ったことで、ふたりはDNAの構造を原子単位で組み立てることができた。
量子力学は彼らに、炭素原子、水素原子、酸素原子などの結合が形作る角度を教えてくれた。そこで、レゴで何かを作る子どものように、ふたりはDNAの完全な原子構造を再現でき、それが自身のコピーを作って生物の発生のすべてについて指示を与えることも説明できたのである。
これはまた、生物学と医学を本質的に変えることとなった。19 世紀にチャールズ・ダーウィンは、生命の系統樹を描いてみせ、そのさまざまな枝は非常に多様な形態を表していた。このばかでかい生命の系統樹が、たったひとつの分子から始まっていたのだ。しかも、シュレーディンガーが思い描いたとおり、すべては量子力学の帰結として導き出すことができる。
DNA分子を解き明かしたクリックとワトソンは、それが4種類の原子団──ヌクレオチド〔塩基とリン酸と糖の化合物〕 という──で構成されていることを見出した。それらを区別する4種類の塩基はA、C、T、Gで表され、1列につながったヌクレオチドが平行に並んで2本の長い鎖になっている。それらがからみ合って階段のようになり、DNA分子ができあがる(DNAの1本の鎖を通常は見ることはできないが、それをほどくと、この1個の分子の長さはおよそ180センチメートルになる) 。細胞分裂にともなって複製するときには、DNAの2本鎖がほどけて2本のヌクレオチドの鎖に分かれる。その後、それぞれの鎖が鋳型の働きをし、しかるべき順序でほかから原子団〔相補的なヌクレオチド〕 をつかみ取っていくと、どちらの1本鎖もふたたび2本鎖になる。このようにして、生命は自身を複製できる。
今では、量子論の数学を用いてDNA分子を作り出す方法がわかっている。しかし、DNA分子の基本的な形を明らかにするのは、ある意味で簡単だ。難しいのは、この分子のなかにひそむ何十億ものコード(塩基配列) を解読することなのである。
それはまるで、音楽を理解しようとして、ようやくピアノの鍵盤でいくつかの音の出し方を身につけたようなものだ。それでモーツァルトになれるわけではない。いくつかの音を覚えただけでは、長い旅の始まりにすぎない。
物理学とバイオテクノロジー
われわれの全遺伝子配列を明らかにするという取り組みの先鋒を務めたひとりは、ハーヴァード大学の生化学者でノーベル賞を受賞した、ウォルター・ギルバートだ。私のインタビューを受けたとき、彼は、その分野がもともと自分の計画に入っていたわけではないと打ち明けた。むしろ彼は、ハーヴァードで物理学の教授として働きだし、強力な加速器で作り出す素粒子のふるまいを研究していた。生物学に取り組むことは、まったく頭になかったのだ。
ところが、ギルバートは考えを改めだした。まず、競争の激しいハーヴァードで終身在職権を得るのがいかに大変なことかに気づいた。素粒子物理学の分野には、自分と競う聡明な研究者がたくさんいたのだ。その後、妻の上司だったジェームズ・ワトソンに、ケンブリッジ大学にいたころに会っていたことに気づき、アイデアと発見が相次いでいたバイオテクノロジーという新しい分野で進んでいる先駆的研究について、よく知るようになった。興味をそそられた彼は、素粒子の難解な方程式に取り組みながら、気づけば生物学に手を染めていた。
つまり、自分のキャリアで特大の賭けに出たのだ。
物理学の教授として、ギルバートはひとっ飛びに素粒子の理論物理学から生物学に転向した。それでも賭けは成功した。1980年に彼はノーベル化学賞を受賞したのである。ほかにも多くの成果を上げたが、彼はとくに、DNA分子の塩基配列をすばやく読み取る手法をいち早く開発したひとりとなった。
物理学の素養をもって生物学にやって来たことは、彼にとって実に助けになった。それまで、ほとんどの生物学の研究部門にいるのは、ひとつの動物や植物を専門とする人ばかりだった。なかには、新たな種を見つけて名前をつけることを 生業 《なりわい》 としている人もいる。そこへ突然、量子物理学者が高度な計算を用いてブレイクスルーをなし遂げたのだ。量子力学の難解な言語に長けていたおかげで、ギルバートは生命の分子的基礎に対する理解を一変させるブレイクスルーをなし遂げることができた。
さらに彼は、ヒトゲノム計画にはずみをつける役目も果たした。1986年、ニューヨークのコールド・スプリング・ハーバー研究所における講演で、彼はこの空前の野心的な試みに要するコストを30 億ドルと見積もった。「聴衆は仰天した」と『ジーンウォーズ』〔石館宇夫・石館康平訳、化学同人〕 の著者、ロバート・クック=ディーガンは振り返っている。「ギルバートの予測にどよめきが起きた」。多くの人は、ありえないほど少ない額のように感じたのだ。彼がその驚くべき予測をしたころ、かぞえるほどの遺伝子しか配列が明らかになっていなかった。多くの科学者は、ヒトゲノムの解読は永久に無理だろうとさえ考えていた。
だが、その額がヒトゲノム計画の予算として米国議会に承認されることとなった。技術はおそろしく急速に進歩していたので、この計画は予定より早く、予算以下で完了した。米国政府でもそんなことは前代未聞だった(私はギルバートに、どうしてその額を予想したのかと訊いたことがある。彼は、われわれのDNAに30 億の塩基対があると知っていたので、1塩基の配列決定に要するコストが最終的に1ドルになると見積もっていた) 。
ギルバートは、将来についてこんな予言さえしていた。「薬局に行ってあなた自身のDNA配列をCDで受け取ることもできるだろう。それをあなたは自宅のマッキントッシュで解析できるし……[自分の]ポケットからCDを取り出して『こいつが人間だ。僕だよ!』と言うこともできる」
こうした事実に強く感化されたひとりの人物が、フランシス・コリンズだった。彼は2009年から2021年まで米国立衛生研究所(NIH) の所長を務めており、いまや医学界で最高に影響力の大きな医師のひとりだ。何千万もの人が、テレビで新型コロナウイルス感染症(Covid-19 ) のパンデミックについて最新の状況を語る彼を目にしていただろう。
私はコリンズに、初めは化学を専攻していたのに、どうして生物学に興味をもつようになったのかと尋ねた。すると彼は、生物学はずっと、たくさんの動植物にたくさんの勝手な名前がついていて、とても「面倒」なものに思えていたと打ち明けた。理不尽だと思ったのだ。化学には、秩序と規則とパターンが見られ、それらを調べて再現することができた。だから彼は、物理化学を教え、シュレーディンガー方程式を用いて分子の内部の仕組みを説明していた。
しかし、やがてコリンズは、自分が間違った分野にいることに気づいた。物理化学はすっかりできあがっていて、原理も概念もよく知られていたのだ。
そこで彼は、生物学を見なおしはじめた。生物学では未知の昆虫や獣に耳慣れないギリシャ語の名前が与えられていたが、バイオテクノロジーの分野には新たなアイデアや概念があふれかえっていた。新参者を待ち受ける未踏の領域だったのである。
コリンズはほかの人の意見を聞いてまわった。ウォルター・ギルバートも相談を受け、自分が素粒子物理学からDNAの配列決定に転向した話をした。そして同じことをすればいいとコリンズを励ました。
それでコリンズは思い切って新分野に飛び込んでみたが、後悔することはなかった。彼はこう思い返している。「『なんとまあ、ここには本物の黄金時代がやって来ているではないか』と気づいた。私は、熱力学をひどく嫌う学生たちに、それを教えようとしているのではないかと不安になっていた。ところが生物学で起こっていることは、1920年代の量子力学の状況のように見えたのだ。……すっかり圧倒されてしまった」
すぐさまコリンズは名をなした。1989年に、 囊 《のう》 胞 《ほう》 性線維症の原因となる遺伝子変異を明らかにしたのだ。DNAのなかで、わずか3つの塩基対の欠失(ATCTTTがATTになる) が引き起こすことを見出した。
やがて、コリンズは保健医療の行政機関のトップにのぼりつめた。それでも彼は、ワシントンに自分の流儀を持ち込み、オートバイに乗って通勤した。自分個人の宗教的信念も手放さなかった。彼は『DNAに刻まれた神の言語』〔中村昇・中村佐知訳、いのちのことば社〕 というベストセラー書籍まで著している。
バイオテクノロジーの3段階
ギルバートとコリンズは、ある意味でこの分野の発展段階の一部を象徴している。
第1段階:ゲノムの地図を作る
第1段階では、ウォルター・ギルバートらが、科学における史上最大級の挑戦、ヒトゲノム計画を完遂した。だが、ヒトゲノムのカタログは、2万の見出し語があって定義がのっていない辞書のようなものだ。それ自体、不朽の成果だが、使えない成果でもある。
第2段階:遺伝子の働きを明らかにする
第2段階では、フランシス・コリンズらが、そうした遺伝子の定義を書き込んでいこうとした。病気や組織や器官などにかかわる配列を決定することで、遺伝子の働き方を少しずつまとめていける。これはひどく遅々とした作業だが、徐々に辞書ができあがっていく。
第3段階:ゲノムを修復し改良する
しかし、いまやわれわれは、この辞書を使ってみずから作家になれる第3段階に入りつつある。これはつまり、量子コンピュータで遺伝子の働きを分子レベルで解明するということなので、われわれは新たな治療法を考案し、新たなツールも作り出して、不治の病と戦えるようになる。そうした病気がどのようにしてダメージを与えるのかを分子レベルで理解できれば、その知識をもとに、病気を無害化したり治したりする新たな手だてを考え出せるかもしれない。
生命のパラドックス
生命の起源をたどろうとするときに、立ちはだかる大きなパラドックスがまだ残っている。ランダムな化学的事象から、どうして生命のこのうえなく複雑な分子を、こんなにも短い時間で作り出せるのだろう?
地質学者は、地球の年齢が46 億歳だと考えている。10 億年近くにわたり、地球は溶融状態で、熱すぎて生命を維持できなかった。小天体の衝突や火山の噴火が繰り返されたため、太古の海はきっと何度か干上がり、生命を育めなくなっていただろう。だが、38 億年前ごろには、地球は次第に冷えて海ができるほどになっていた。DNAは37 億年前あたりに出現したと考えられているので、2億年ほどのうちに、いきなりDNAが、エネルギーを使って複製することのできる化学的プロセスを備えて登場したことになる。
こんなことはありえないという考えを述べた科学者もいる。宇宙論の偉大な先駆者のひとり、フレッド・ホイルは、DNAがこれほどすばやく現れたように見えるのなら、生命はあまり時間をかけずに地球に生まれたことになってしまうので、宇宙からやって来たにちがいないと考えた。宇宙空間にある岩石やガス雲にはアミノ酸が含まれていることが知られているから、生命はどこか別の場所で誕生したのかもしれなかった。
これをパンスペルミア説といい、近年新たな証拠がふたたび関心に火をつけている。隕石に含まれる鉱物と微小な気泡を調べてみると、宇宙探査機が火星で見つけた岩石のものと正確に一致しているものがあるのだ。これまでに発見された6万個の隕石のうち、少なくとも125個は火星からやって来たものと確定されている。
一例を挙げよう。ALH84001という隕石は、1万3000年前に南極に落下したものだ。それは、おそらく1600万年前の小天体の衝突によって火星から宇宙へ吹き飛ばされ、そのまま漂流して最終的に地球に落ちてきた。内部の顕微分析から、いくつかミミズ状の構造が明らかになっている(現在でも、その構造が太古の多細胞生物の化石か自然に起きた現象の産物かをめぐり、議論がある) 。岩石が火星から地球へ旅することができるのなら、DNAにもそれができるのではないか?
今では、たくさんの小惑星が、火星と金星、月、地球のあいだを漂っていて、十分に大きな小惑星衝突によってそうした惑星や月から岩石が宇宙へ放り出され、やがて別の惑星や月にたどり着いていると考えられている。DNAがどこかほかの星から地球にやって来た可能性も排除できないのだ。
ところが、この謎に対して別の説明もできる。
すでに見たとおり、量子論によって可能になるいくつかのメカニズムは、化学的なプロセスを大幅に加速する。前に取り上げた経路積分法は、化学反応において、ありそうにないものも含め、考えられるすべての経路について足し合わせる。通常のニュートン物理学のルールでは禁じられる経路も、量子力学では実際にありうるのだ。そうした経路のなかに、複雑な分子構造の創造へ導くものがあるかもしれない。
酵素が化学反応を加速しうることもわかっている。酵素は化学物質同士を引き合わせるので、すばやく反応を起こす。それで必要なエネルギーの 閾 《いき》 値 《ち》 が下がる結果、反応物はエネルギーの障壁をトンネルのように抜けられるのだ。すると、とてもありそうにない化学反応も、実現しうる。見たところエネルギー保存則に反するような反応が、量子論のもとでは許されるのである。
したがって、要するに量子力学で、生命が地球でとても早く出現した理由を説明することもできる。量子コンピュータの登場によって、生命についてわれわれに理解できていないことの多くが解明される望みもある。
計算化学と量子生物学
量子コンピュータの急速な進歩は、計算化学と量子生物学という新しい科学を生み出しつつある。ついに、量子コンピュータによって、分子のリアルなモデルが作れるようになり、科学者は化学反応がどのように起きるのかを、原子単位で、ナノ秒ごとに眺められるようになってきているのだ。
料理本をもとに食事を用意するとしよう。ひとつひとつ手順を追うだけなのは便利だが、調味料と食材の相互作用でどのようにしておいしい食事ができるのかはわからない。料理本がなければ、すべてが試行錯誤と当て推量になる。それでは時間がかかるし、行き詰まってしまうことも多い。ところが、今日の化学のかなり多くがそのような状態なのだ。
では、今度はすべての材料を分子レベルで分析できるとしよう。理論上、分子の相互作用がすべてわかっていれば、第一原理から新たにおいしい料理のレシピが作れるだろう。これが量子コンピュータで期待できる。遺伝子やタンパク質や化学物質の相互作用を分子レベルで理解できるのだ。
IBMの研究者、ジャネット・M・ガルシアは次のように言っている。「分子が大きくなると、あっという間に古典的なコンピュータでシミュレートできる領域を超えてしまう[2 ] 」
別のときにも、ガルシアは書いている。「単純な分子でも、完全に正確にふるまいを予測するのは、ほとんどの高性能コンピュータの能力を超えている。そこで量子コンピューティングが、この先何年かの著しい進歩の可能性を提供することになる[3 ] 」。彼女は、デジタルコンピュータでは2個ほどの電子のふるまいしか正確に計算できないと指摘する。それ以上になると、思い切った近似をしなければ、どんな古典的なコンピュータでもとうてい計算できなくなるのだ。
ガルシアはこう続ける。「いまや量子コンピュータは、水素化リチウムなど、小さな分子のエネルギーや性質をモデル化できる段階にある──従来より明確に発見に至る道筋を示すモデルができる可能性を提供しているのだ」
ヴァージニア工科大学のジュー・リンフアの言葉ものせよう。「原子は量子で、コンピュータも量子で、私たちは量子を使って量子をシミュレートしている。古典的な方法を使う場合は必ず近似を用いるが、量子コンピュータでは、それぞれの原子がほかの原子と起こす相互作用を正確に知ることができる[4 ] 」
たとえば、芸術家が名画『モナ・リザ』の複製画を描こうとするとしよう。芸術家に爪楊枝しか与えなかったら、できあがる絵は棒線からなるおおざっぱな姿にしかならない。直線では人間の形の複雑さをとらえきれないのだ。しかし、芸術家にいくつもの色を描ける細字のインクペンを与えたら、曲線の形をたくさん生み出せて、名画のある程度の複製ができる。つまり、曲線をシミュレートするには曲線が必要なのである。それと同じく、量子コンピュータでしか、化学物質や生命の構成要素など、量子の系がもつ複雑さはとらえられない。
どういうことかをわかってもらうために、第3章で触れたシュレーディンガーの波動方程式に立ち戻ろう。そのとき、対象となる系の全エネルギーを表すH (ハミルトニアン) という量を導入したことを思い出してほしい。すると、大きな分子では、その量は次に挙げるようなたくさんの項の和になる。
・それぞれの電子と原子核の運動エネルギー
・各粒子の静電エネルギー
・あらゆる粒子のあいだの相互作用
・スピンの影響
考えられる最も単純な系──電子1個と陽子1個だけの水素原子──を調べる場合、これは大学院1年生の物理学で解ける。答えを導き出すのに、ほとんど大学3年の微積分しか必要としない。それでも、そのような単純な系で、水素原子のすべてのエネルギー準位など、まさしく宝の山が手に入る。
ところが、電子が2個になり、ヘリウム原子になるだけで、一気に問題は込み入ってくる。2個の電子のあいだで複雑な相互作用が生じるからだ。3個以上の電子では、すぐにデジタルコンピュータでは手に負えなくなる。そのため、それなりに正確な結果を得るのにも、相当な近似をおこなわないといけない。量子コンピュータにはこの点で強みがある。
じっさい、2020年にグーグルのシカモアコンピュータが新記録を打ち立てた。12 個の水素原子の鎖を、12 キュービットで正確にシミュレートできたのだ。
「その結果にわれわれはかなり興奮した。それまでのどの量子化学のシミュレーションと比べても、キュービットの数も電子の数も倍を超えているからだ。しかも正確さは同じレベルだった」と、新記録を出したチームの一員だったライアン・バブッシュは語る[5 ] 。
量子コンピュータはさらに、水素と窒素を含む化学反応を、たとえ水素原子の1個の位置を変えてもモデル化することができた。バブッシュはこう言い添えている。「これは、実のところ、このデバイスが完全にプログラム可能なデジタル量子コンピュータであり、やろうとするどんなタスクにも使えることを示している」
ガルシアはこう結論づけている。「古典的なコンピュータでは、カフェインほどありふれた物質の複雑さのレベルにも対処できない」。彼女に言わせれば、未来は量子なのだ。
だが、こうした初めの成果は、量子科学者の欲望をかき立てるばかりだった。彼らは地球の生命の基礎と言える光合成など、さらに野心的な企てに取り組みたがっている。どうやって太陽光を取り込んでこの世界の恵みとなる果物や野菜を作り出しているのかという謎が、いつか量子コンピュータで解き明かされるのだろうか。だから、次のターゲットは光合成かもしれない。この惑星でとりわけ重要な量子論的プロセスのひとつだ。