ミチ・オカク「量子超越」11章 遺伝子編集とがん

1971年、米国大統領リチャード・ニクソンは声高らかに「がんとの戦い」を宣言した。現代医学がこの大きな災いについに終止符を打つだろう、と。

しかし歳月を経て、歴史家がこの取り組みを振り返ったとき、判定は明らかだった。がんが勝利を収めていたのだ。確かに、がんとの戦いは手術や化学療法や放射線治療によって徐々に成果を上げているが、がんによる死者の数は依然として高いままで、がんはいまだに心疾患に次いで、米国の死因の第2位となっている。全世界では、2018年に950万人ががんに命を奪われている。

「がんとの戦い」の根本的な問題は、科学者ががんの正体を知らなかった点にあった。この恐るべき病気がただひとつの要因によって生じるのか、それとも食事、環境汚染、遺伝、ウイルス、放射線、喫煙、あるいは単なる不運といった要因が複雑にからみ合って生じるのかをめぐり、激しい論争が繰り広げられた。

数十年を経て、遺伝学やバイオテクノロジーの進歩により、ついに答えが明らかになった。最も根本的なレベルでは、がんは遺伝子の病気だが、環境汚染や放射線など──あるいはただの不運──が引き金を引くこともある。実のところ、がんは単一の病気などではなく、何千、何万という種類の遺伝子変異なのだ。今では、正常な細胞が突然増殖して持ち主を殺すようになるさまざまながんについて、百科事典のような知識の集成ができている。

がんはおそろしく多様でありふれた病気だ。数千年前のミイラにも見つかっている。がんについて触れている最古の文献は、紀元前3000年のエジプトにまでさかのぼる。一方、がんはヒトにだけ見られるわけではない。動物界全体に見られる。ある意味でがんは、われわれが地球上で複雑な生命形態をもつうえで払うべき代償なのである。

何兆もの細胞が次々と込み入った化学反応を起こす複雑な生命形態を作り上げるために、一部の細胞は新しい細胞に取って代わられて死ななければならない。そのおかげで身体は成長し発達することができる。赤ん坊がもつ細胞の多くは、成人の細胞の下地として、やがて死ぬことになる。このことは、細胞が必要に迫られて死ぬように遺伝的にプログラムされていることを意味する。新たに複雑な組織や器官を作るために、みずからを犠牲にするのだ。これをアポトーシスという。

このプログラム細胞死は、身体の健全な成長のために欠かせないのだが、ときにエラーが生じ、その遺伝子のスイッチが切られて、細胞がやたらに複製し増殖しつづけるようになることがある。そうなった細胞は増殖を止められず、その意味でこうしたがん細胞は不死と言える。さらに言えば、だからがん細胞はわれわれの命を奪う。とめどなく増殖し、 腫 《しゆ》 瘍 《よう》 を形成し、それがやがて生命に不可欠な身体機能を停止させてしまう。

要するに、がん細胞は、通常の細胞が死に方を忘れてしまったものなのである。

がんができるのには、えてして数年から数十年かかる。たとえば子どものころにひどい日焼けをしたら、数十年後にその場所に皮膚がんができることがある。何度か変異を重ねないとがんが生じないからだ。たいてい数年から数十年かけて変異がいくつか蓄積されると、ついにその細胞が複製を抑える能力を失うことになる。

しかし、これほどがんが致死的な病なら、なぜ進化の力が、そうした欠陥遺伝子を自然選択によって何百万年も前に駆逐しなかったのだろう? 答えは、がんの成長が主に生殖年齢を過ぎてからなので、がんの遺伝子を排除する進化圧が小さいためなのだ。

ときにわれわれは、進化が自然選択と偶然によってなし遂げられていくことを忘れてしまう。生命の生存を可能にしている分子メカニズムは確かに驚くべきものだが、それは数十億年の試行錯誤によるランダムな変異の副産物だ。そのため、死病に対する完璧な防御体制がわれわれの体に備わっていると期待することはできない。がんにかかわる変異は途方もない数であることを考えると、山のような情報をふるいにかけ、がんの根本原因を突き止めるために、量子コンピュータが必要になるかもしれない。量子コンピュータは、さまざまなややこしい形で現れる病気に取り組むのにうってつけだ。そしていずれ、がん、アルツハイマー病、パーキンソン病、ALSなどの不治の病と対峙するまったく新しい戦場を提供してくれる可能性がある。

 

 

リキッドバイオプシー

 

 

自分にがんができたかどうかは、どうしたらわかるだろう? 残念ながら、多くの場合、わからない。がんの徴候は、時としてあいまいだったり検知しにくかったりする。じっさい、腫瘍が形成されるころには、体内にがん細胞が何十億も増殖していることもある。悪性腫瘍が見つかったら、主治医はただちに手術か放射線治療か化学療法を勧めるだろう。だが、すでに手遅れという場合もある。

しかし、腫瘍が形成される前に異常な細胞を検知して、がんの成長を防ぐことができたらどうだろう? 量子コンピュータは、そうした取り組みにおいて重要な役割を果たせるかもしれない。

現在、われわれは定期健診で血液検査を受け、健康のお墨付きをもらっているだろう。それでもその後、がんとわかる徴候が現れることがある。そんなとき、あなたは思うかもしれない。どうして血液検査でがんを検知できないのだろう、と。

それは、われわれの免疫系がふつう、がん細胞を検知できないからだ。がん細胞は、監視の目をかいくぐる。免疫系が容易に気づけるような外敵とは違う。がん細胞はわれわれ自身の細胞がいかれたものなので、見つけられないのだ。だから、免疫反応を調べる血液検査では、がんを検知できない。

それでも、すでに100年以上前から、がんの腫瘍から細胞や分子が体液に剝がれ落ちることが知られている。事実、がんの細胞や分子は血液、尿、脳 脊 《せき》 髄 《ずい》 液のほか、唾液からも検出されることがある。

あいにく、これができるのは、すでに体内で何十億ものがん細胞が増殖するようになってからの話だ。こうなってからでは、ふつう、腫瘍を摘出するために手術が必要になる。ところが近年、遺伝子工学によって、血液などの体液に漂うがん細胞を検出する能力が向上している。いずれこの手法は、わずか数百個のがん細胞を検出できるほど感度が上がり、腫瘍が形成される何年か前に対処できるようになるかもしれない。

だが、がんの早期警報システムが一般的に構築できるようになったのは、ここ数年のことだ。有望な検査手段のひとつがリキッドバイオプシー(液体生検) というもので、これは迅速かつ簡便に多様ながんを検出できるため、がんの検査に革命を起こす可能性がある。

「近年、がんの革新的なスクリーニング(検診) ツールであるリキッドバイオプシーの臨床開発が、大きな期待を生んでいる」とリズ・クウォーとジェンナ・アロンソンは『アメリカン・ジャーナル・オブ・マネージド・ケア』誌に書いている[1 ] 。

現在、リキッドバイオプシーは最大で50 種類のがんを検出できる。やがては、がんが致命的な状態になる何年も前に、ごくふつうの検診でがんを検出できるようになるのではなかろうか。

将来は、体液をめぐっているがん細胞や酵素や遺伝子のしるしを、トイレで尿から検知できる可能性さえある。そうなれば、がんは風邪ほどの致死率の病気になるだろう。トイレに行くたびに、気づかぬうちにがん検査を受けることになるのだ。そんな「スマートトイレ」がわれわれの防御の最前線になるのかもしれない。

何千、何万という種類の変異ががんを引き起こすが、量子コンピュータならそれを突き止め、簡単な血液検査でたくさんのがんの可能性を検知できるようになるのではないか。あるいは、毎日または毎週ゲノムを読み取り、リモートで量子コンピュータに有害な変異の形跡を調べてもらうこともできるかもしれない。これはがんの治療ではないが、これにより、がんが成長するのを防ぎ、その危険を風邪ほどのものにすることはできる。

多くの人は、こんな素朴な疑問を口にする。「なぜ風邪にかからないようにできないのか?」。実は、できる。だが、風邪を引き起こす主な病原体のライノウイルスは300種類を超え、それが絶えず変異しているから、この動く標的に当てようと300のワクチンを開発しても意味がない。われわれはそれと共存するしかないのである。

これががん研究の未来の姿かもしれない。死をもたらすものではなく、いずれは厄介もの程度に見られるようになるのだろうか。がんにかかわる遺伝子はとても多いので、すべてを治す方法を考え出すのは非現実的だ。しかし量子コンピュータで、がんが成長する前に、がん細胞が数百個の小さなコロニーを作っている段階で検出できれば、進行を食い止めることができるのではないか。

つまり、将来がんがなくなりはしなくても、人の命を奪うことはまれになるかもしれないのだ。

 

 

がんを嗅ぎ当てる

 

 

早い段階でがんを見つける方法として、がん細胞が発するかすかなにおいを検出するセンサーを用いることも考えられる。いつか、あなたの携帯電話に、においを検知できてクラウドで量子コンピュータにつながるアタッチメントを付け、がんだけでなくほかのさまざまな病気からも身を守れるようになるかもしれない。量子コンピュータは、全国の無数の「ロボットノーズ(ロボット鼻) 」から送られてくるデータを分析し、がんを食い止めることができるだろう。

においの分析は、実証済みの診断技術だ。たとえば、現在空港で新型コロナウイルスの検知に犬が利用されている。ウイルスの一般的なPCR検査は数日かかるが、特殊な訓練を受けた犬は、10 秒もあれば95 パーセントの確度でウイルスを見つける。すでにヘルシンキ空港などで乗客の検査に使われている。

犬はこれまで、肺がん、乳がん、卵巣がん、 膀 《ぼう》 胱 《こう》 がん、前立腺がんを見つけるように訓練されてきた。事実、患者の尿サンプルを嗅いで前立腺がんの検知に成功する率は、99 パーセントにのぼる。ある調査では、乳がんを88 パーセントの確度で、肺がんを99 パーセントの確度で検知することもできた。

なぜこれほどのことができるのかといえば、犬の鼻にはにおいの受容体が2億2000万個もあるからだ。人間の鼻には500万個しかない。そのため、犬の嗅覚は人間よりはるかに精度が高いのである。きわめて精度が高いので、1兆分の1の濃度(ppt) でも検出できる。これは、オリンピックサイズのプール20 個分の水に垂らした1滴の液体を検出するのに等しい。また、においを分析するための脳の領域も、人間よりはるかに広い。

とはいえ、コロナウイルスやがんを識別できるように犬を訓練するのには数か月かかるし、そういう特殊な訓練を受けた犬がいくらでもいるわけではないという問題はある。こうした分析を、われわれ自身のテクノロジーによって、何百万人もの命を救える規模でおこなえないだろうか?

米国同時多発テロの直後、私はあるテレビ局に招かれ、特別な昼食会で将来のテクノロジーについて話し合う機会を得た。隣に座っていたのは、国防総省において未来のテクノロジーを生み出すことで知られていた部局、DARPA(国防高等研究計画局) の高官だった。DARPAは長い歴史のなかで、NASA、インターネット、自動運転車、ステルス爆撃機などの華々しい成果を生んできた。

そこで私は、ずっと気になっていたことを彼に質問した。爆発物を検知するセンサーはなぜ開発できないのでしょうか、と。犬にはたやすくできることが、われわれの最も優れたマシンにもできないのだ。

一瞬黙ってから、彼は犬と最先端のセンサーとの違いをじっくり説明してくれた。実を言うと、DARPAもこの問題を仔細に検討しており、犬の嗅神経は、なんらかのにおいの分子をひとつひとつとらえられるほど感度が高いことに気づいていた。世界最高峰の研究所で開発された人工のセンサーでも、この感度にはかなわないという。

この会話から数年後、DARPAは、犬に近いロボットノーズを実験室で作れるかどうかを探るコンテストを開催した。

このコンテストのことを耳にしたひとりが、マサチューセッツ工科大学(MIT) のアンドレアス・マーシンだった。彼は、さまざまな疾患を検知する、奇跡に近い犬の能力に引きつけられていた。マーシンが最初にこの問題に関心をもったのは、膀胱がんの検知について研究していたときのことだ。1匹の犬が、ある患者ががんにかかっていると執拗に判定した。その患者は何度も検査を受け、がんはないとされていたのに。どうにもおかしかった。犬はその検体から動かない。ついに患者がもう一度検査を受けることに同意すると、標準的な臨床検査では検出できないきわめて早期の膀胱がんが見つかったのである。

マーシンはこの驚くべき成功を再現したいと考えた。目指したのは、がんなどの疾患を検出できる複数のマイクロセンサーを備え、本人の携帯電話に警告を送る「ナノノーズ」である。今ではMITとジョンズ・ホプキンズ大学の科学者が、犬の鼻より200倍も感度の高いマイクロセンサーを開発できている。

しかし、このテクノロジーはまだ実験段階で、ひとつの尿の検体でがんの分析をするのにおよそ1000ドルかかる。それでもマーシンは、いつの日かこのテクノロジーが、携帯電話に付いているカメラぐらいありふれたものになると思い描いている。何億もの携帯電話やセンサーから途方もない量のデータが送られてくるので、量子コンピュータにしか、このデータの宝庫は処理できないだろう。その後、人工知能を使ってシグナルを分析し、がんのしるしを見つけて、場合によっては腫瘍が形成される何年も前に、その情報をあなたに送るのだ。

将来は、深刻な事態となる前にがんをたやすくひそかに検知する方法が、いくつか登場するかもしれない。リキッドバイオプシーやにおい検知器が量子コンピュータにデータを送り、量子コンピュータが多種多様ながんを突き止める。それどころか、今ではもうだれも「 瀉 《しや》 血 《けつ》 」や「ヒル療法」の話をしないのと同じように、「腫瘍」という言葉もふだんの会話から消えてなくなるのではないか。

だが、がんができていた場合にはどうするか? 量子コンピュータを使って、身体を攻撃しだしたがんを治せるだろうか?

 

 

免疫療法

 

 

現時点で、がんが見つかった場合の主な処置は、少なくとも3つある。手術(腫瘍を摘出する) と、放射線治療(X線や粒子線でがん細胞を殺す) と、化学療法(毒でがん細胞を殺す) だ。しかし、遺伝子工学の登場により、新しい形態の治療法が広まりつつある。免疫療法だ。この治療法にはいくつかタイプがあるが、一般に、どれも身体そのものの免疫系の助けを借りる。

前にも述べたが、がん細胞はあいにく身体の免疫系で容易に発見できない。たとえば、体内のT細胞やB細胞は、莫大な数の外来抗原を特定してから殺すようにプログラムされているが、白血球が認識できる抗原のリストにがん細胞は入っていない。そのため、がん細胞は免疫系の監視の目をかいくぐる。そこで、われわれ自身の免疫系の力を人為的に高め、がん細胞を認識して攻撃させるというのが免疫療法の手口だ。

ある免疫療法では、まず標的となるがん細胞についてゲノムの配列を決定し、そのがんのタイプと成長のしかたを正確に知ることができるようにする。次に、血液から白血球を取り出す一方で、がん細胞の遺伝子を用意する。それから、そのがんの遺伝情報を、(あらかじめ無害にしておいた) ウイルスにのせて白血球に送り込む。こうして白血球は、そのがん細胞を見つけるように再プログラミングされる。最後に、その白血球を注射して体内に戻す。

これまでのところ、これは難治性のがんの治療法として、がんが体じゅうに広がった末期でも大いに有望だ。手の施しようがないと告げられながら、いきなり劇的にがんが消えた患者もいる。

免疫療法は、膀胱、脳、乳房、子宮 頸 《けい》 部 《ぶ》 、大腸、直腸、食道、腎臓、肝臓、肺、リンパ、皮膚、卵巣、 膵 《すい》 臓 《ぞう》 、前立腺、骨、胃のがんや、白血病の治療に用いられており、どれに対しても、程度の差こそあれ効果を示している。

しかし、欠点もある。がんが何千種類もあるなかで、この療法は限られたがんにしか使えない。そればかりか、白血球の遺伝子を人為的に修正しているので、その修正が完璧ではないこともある。これにより、望ましくない副作用が生じるおそれがあるのだ。事実、そうした副作用で命を落とす患者もいる。

だが、量子コンピュータなら、この療法を完全なものにできる可能性がある。いずれは、大量の生データを解析して、それぞれのがん細胞の遺伝子を見つけられるかもしれない。そんな途方もない作業は、古典的なコンピュータにはとうてい不可能だろう。全国の各個人のゲノムを、月に何度か、体液の分析によってひそかに手際よく読み取ることになる。そして人々の全ゲノムの配列を決定し、ひとりにつき2万を超える遺伝子のリストを作る。それから、これをすでに調べられている何千ものがん関連遺伝子の候補と照合する。この大量の生データを解析するには、いくつもの量子コンピュータからなる巨大なインフラが必要になる。それでも、得られる恩恵は莫大なものになる。恐るべき殺し屋の減少である。

 

 

免疫系のパラドックス

 

 

免疫系には長年の謎があった。外から侵入する抗原を駆逐するために、体はまずそれを見分けなくてはならない。考えられるウイルスや細菌は事実上無限にあるのに、免疫系はどうやって危険なものと無害なものを区別できるのだろう? これまで出合ったことのない病気があっても、どうして見分けがつくのか? 警察が、見たこともないおおぜいの人のなかで、だれを逮捕すべきかがわかるようなものだ。

一見、そんなことは不可能のように思える。病気の種類は理論上無数にあるのだから、免疫系がどうやってしかるべき病気だけを魔法のように見つけられるのかがわからない。

しかし、進化はこの問題を解決する賢い手だてを編み出した。白血球のひとつであるB細胞は、細胞壁から突き出たY字形の抗原受容体をもっている。B細胞の仕事は、そのY字形の受容体の先端を危険な抗原にはめ込み、その場で破壊するか、あとで破壊すべく目印を付けることだ。脅威となる抗原は、このようにして見分けられている。

生まれたばかりのB細胞では、抗原と結びつくY字形受容体が、その先端部をコードする多種類の遺伝子をランダムに組み合わせて作られる。これが鍵を握っている。このため理論上、有益なものも有害なものも、身体が遭遇しうるほぼすべて の物質について、対応する受容体が、種々のランダムな受容体のなかに見つかるのだ(少数のアミノ酸でどれほど膨大な数の受容体が作れるかを理解するために、次のように考えてみよう。まず事実として、人体のタンパク質を形作るアミノ酸は20 種類ある。たとえば10 個のアミノ酸をつなげた鎖を1本作る場合、1個1個のアミノ酸には20 通りの可能性がある。すると、アミノ酸のランダムな配列は、20 ×20 ×20 ×……=「20 の10 乗」通り存在することになる。ただし受容体を作る遺伝子はどれも一個ではなく複数のアミノ酸に対応するので、実際にありうるB細胞の受容体の種類はこれと異なり、およそ10 の12 乗通りだ。それでもこの10 の12 乗という天文学的な数は、受容体が遭遇しうるほぼすべての抗原をカバーしているのである) 。

ところが、いったん完全にランダムに作られたY字形受容体のうち、自分の身体がもつ分子に結合するY字形受容体は徐々に取り除かれていく。すると、あとに残るのは、危険な抗原に結合するY字形受容体だけになる。こうしてY字形受容体は、一度も遭遇したことのない危険な抗原も攻撃できるようになるのだ。

だからこの仕組みは、おおぜいの人のなかで犯人を見つけようとする警察に似ている。まず警察は、それまでに無実であることがわかっている人をすべて除外する。そうすれば、残った人のなかに犯人がいるだろうとわかる。

われわれが、無数の細菌やウイルスが漂う目に見えない大海のなかで生きていることを思えば、このシステムはなんともうまく働いている。だが、これが裏目に出ることもある。たとえば、体内にあるものに対応する受容体を除外する際に、全部を取り尽くしていないことがある。すると、有益な分子に結合する受容体の一部が消されずに残り、身体の分子が免疫系の攻撃を受けることになる。警察の例で言えば、無実の人をすべて除外しきれず、何人かが誤って取り残される。すると、容疑者を尋問する段階で、無実の人も何人か疑われてしまうのだ。

その結果、体がみずからを攻撃し、多くの自己免疫疾患が生じる。これが、関節リウマチ、全身性エリテマトーデス、1型糖尿病、多発性硬化症などの原因と考えられている。

ときには、これとは逆のことも起こる。免疫系が、有益な分子に結合する受容体を除外するだけではなく、誤って有害な分子に結合する受容体も消してしまうのだ。すると免疫系は、危険なものを見つけられなくなり、それがもとで病気が起こる。

これが一部の種類のがんでときたま起こっているようで、その場合、身体が有害な抗原を検知できなくなる。

危険な抗原を見分けるというプロセスそのものが、まるっきり量子力学的なプロセスと言える。デジタルコンピュータでは、免疫系がきちんと働くために分子レベルで繰り広げられているはずの複雑な現象を再現できない。しかし、量子コンピュータほどの性能があれば、免疫系がどのようにその手品をしてみせるのかを、分子レベルで解き明かせる可能性がある。

 

 

CRISPR 《クリスパー》

 

 

量子コンピュータの医療用途は、遺伝子の切り貼りができるCRISPR(clustered regularly interspaced short palindromic repeats=クラスター化され、規則的に間隔があいた短い回文構造の繰り返し) という新技術と組み合わさると、さらに増すかもしれない。量子コンピュータは複雑な遺伝性疾患を見分けるのに使え、CRISPRはそれを治すのに使えそうなのだ。

かつて1980年代、遺伝子医療──欠陥遺伝子の修復──に非常に大きな関心が寄せられていた。人類を苦しめている遺伝性疾患は、知られているだけで1万を超える。人々は、科学によって生命のコードを書き換え、母なる自然が犯した誤りを修正することができると信じていた。遺伝子医療によって、人類を強化し、遺伝子レベルでわれわれの健康や知能を向上させられるだろうという話まであった。

初期の研究の多くは、容易なターゲットに目を向けていた。われわれのゲノムのなかで数文字(塩基) の誤りによって生じる遺伝性疾患である。たとえば、鎌状赤血球貧血(アフリカ系米国人に多い) や囊胞性線維症(北欧の人に多い) やテイ=サックス病(ユダヤ人に多い) は、ゲノムの1文字から数文字の誤りによって生じる。遺伝コードを書き換えるだけでこうした疾患を治せるという期待があったのだ。

(近親婚によってヨーロッパの王族に遺伝性疾患が頻発したことで、世界史にまで影響が及んだと歴史家は指摘している。英国の国王ジョージ3世は、遺伝性疾患のために精神が錯乱した。この精神障害がアメリカ独立革命をもたらしたのかもしれないというのが歴史家の見立てだ。また、ロシアのニコライ2世の息子は血友病を患っており、宮廷はこの病を治せるのは神秘家のラスプーチンだけだと信じ込んだ。これによって帝国は機能不全に陥り、必要な改革が遅れ、その結果1917年にロシア革命が起こるに至ったとも考えられる)

遺伝子操作の治験は、免疫療法と同じような方法でおこなわれた。まず、宿主を攻撃しないように改変した無害なウイルスに、所望の遺伝子を挿入する。それからそのウイルスを患者の体内に注入し、患者を所望の遺伝子に「感染」させるのである。

残念ながら、合併症がすぐに現れた。えてして身体がこのウイルスを認識して攻撃し、患者に望ましくない副作用をもたらすのだ。遺伝子療法への期待の多くは、1999年にひとりの患者が治験で亡くなって打ち砕かれた。資金も底をつきだした。研究計画は大幅に縮小され、治験は見直しや中止になった。

しかし近年、研究者は、母なる自然がどのようにウイルスを攻撃しているかをつぶさに観察するようになって、突破口を見出した。ときにわれわれは、ウイルスが人だけでなく、細菌も襲うことを忘れている。そこで単純な問いが立てられた。細菌はどうやってウイルスの攻撃から身を守っているのか? すると驚いたことに、細菌は途方もない年月をかけて、侵入してくるウイルスの遺伝子を切り刻む手だてを編み出していたことがわかった。ウイルスに攻撃を仕掛けられた細菌は、ウイルスの遺伝子を正確に決まった場所で切り分ける化学物質を大量に放出して反撃し、感染を防ぐ。この強力なメカニズムが突き止められ、ウイルスの遺伝子配列を所望の場所で切断するのに利用できるようになった。2020年、この革命的なテクノロジーを完成させた先駆的な業績によって、エマニュエル・シャルパンティエとジェニファー・ダウドナにノーベル化学賞が贈られた。

このプロセスは、文書の作成にたとえられる。かつてタイプライターでは、文字をひとつずつ順に打たなければならず、それは面倒で間違いの多い作業だった。ところが、ワードプロセッサでなら、原稿のあちこちを削除したり入れ替えたりして全体を編集することができる。これと同じように、CRISPRテクノロジーは、いずれ遺伝子操作に応用できるかもしれないし、すでにここ何年かである程度の成功を収めている。これは遺伝子操作の水門を開けることになるだろう。

遺伝子治療の具体的なターゲットのひとつは、p53 遺伝子だろう。この遺伝子が変異すると、乳がん、大腸がん、肝臓がん、肺がん、卵巣がんなど、一般的ながんのほぼ半数に関与する。そんなにも発がん性をもちやすいひとつの理由は、並外れて長い遺伝子なので、変異が起こりうる部位がたくさんあるからかもしれない。これは本来がん抑制遺伝子であり、がんの増殖を食い止めるのに欠かせない。このため「ゲノムの守護者」と呼ばれることも多い。

だが変異を起こすと、p53 遺伝子はヒトのがんを最もよく引き起こす要因のひとつとなる。事実、この遺伝子の特定の部位で起こる変異は、たいてい特定のがんと相関している。たとえば、長期にわたる喫煙者は、p53 遺伝子で特定の3つの変異を起こしてがんになることが多い。この知見から、その人の肺がんの原因として最も可能性が高いものは喫煙であると証明できそうなのである。

将来、遺伝子治療やCRISPR技術の進歩により、免疫療法や量子コンピュータを用いてp53 遺伝子のミススペル(綴り間違い) を修正できれば、多くのタイプのがんを治せるようになるだろう。

免疫療法には副作用があり、まれに死ももたらすということを思い出そう。この一因は、がんにかかわる遺伝子の切り貼りが正確におこなわれない点にある。たとえばp53 遺伝子は、きわめて長い遺伝子なので、切断時にエラーが起こりやすい。量子コンピュータを使えば、そうした致死的な副作用を減らせるかもしれない。がん細胞の遺伝子の塩基配列を正確に解読できる可能性があるのだ。それから、CRISPRがその遺伝子を正確な場所で切断する。このように、遺伝子治療と量子コンピュータとCRISPRを組み合わせると、このうえなく正確に遺伝子を切断してつなぎ合わせ、致死的な副作用の問題を減らすことができるのではなかろうか。

 

 

CRISPRによる遺伝子治療

 

 

バイオテクノロジー系ニュースウェブサイトLabiotechで、クララ・ロドリゲス・フェルナンデスはこう書いている。「理論上、CRISPRを用いれば、どのような遺伝子変異も意のままに編集し、遺伝子が原因のあらゆる疾患を治すことが可能だ[2 ] 」。単一の変異に起因する遺伝子疾患が、最初の標的となる。さらに彼女は続ける。「単一のヒト遺伝子の変異で生じる1万を超す疾患のすべてに対し、CRISPRは、原因となる遺伝子のエラーを修復することで治せる望みを与えてくれる」。この先、テクノロジーが発達していけば、複数の遺伝子における複数の変異で生じる遺伝子疾患も対象となるだろう。

以下に、CRISPRによって現在治療が試みられている遺伝性疾患をいくつか挙げておこう。

 

 

1.がん

 

ペンシルヴェニア大学の科学者は、がん細胞に身体の免疫系の防御をすり抜けさせている3つの遺伝子を、CRISPRを用いて取り除くことに成功している。その後彼らは、免疫系による腫瘍の識別を助ける別の遺伝子を加えた。この手法は、進行がんの患者に使用しても安全であることがわかっている。

また、CRISPRセラピューティクス社は、血液がん患者130名を対象に治験を実施中だ。治療の方法は、CRISPRを用いてDNAを修復する免疫療法である。

 

 

2.鎌状赤血球貧血

 

CRISPRセラピューティクス社はまた、鎌状赤血球貧血の患者から骨髄幹細胞を採取している。それからCRISPRで、胎児ヘモグロビンを産生するようにこの細胞を改変する。その後、こうして処理した細胞を患者の体に戻す。

 

 

3.エイズ

 

少数の人は、CCR5遺伝子に変異があるため、生まれながらにしてエイズウイルス(HIV) に対する自然免疫をもっている。通常、この遺伝子が作り出すタンパク質は、エイズウイルスが細胞に侵入するためのとっかかりとなっている。ところが、先述の少数の人では、そのCCR5遺伝子が変異しているので、エイズウイルスが細胞に侵入できない。この変異をもたない人に対し、CRISPRで意図的にCCR5遺伝子を編集し、ウイルスが細胞に入り込めないようにする試みがなされている。

 

 

4.囊胞性線維症

 

囊胞性線維症は比較的よく見られる呼吸器疾患で、この病気にかかると40 歳を超えて生きられることはまれだ。病因は、CFTR遺伝子の変異である。オランダの医師たちは、副作用を起こさずに、この遺伝子をCRISPRで修復することに成功した。エディタス・メディシン社、CRISPRセラピューティクス社、ビーム・セラピューティクス社なども、CRISPRを用いた囊胞性線維症の治療を計画している。

 

 

5.ハンチントン病

 

この遺伝子疾患は、認知症や精神疾患などの衰弱性症状を引き起こすことが多い。1692年にセーラムの魔女裁判で処刑された女性のなかには、この病気にかかっていた人もいたと思われる。病因は、ハンチントン遺伝子におけるDNA配列の反復だ。フィラデルフィア小児病院では、CRISPRによるこの病気の治療が試みられている。

 

 

ごくわずかな変異による病気はCRISPRの比較的容易なターゲットになるが、統合失調症などの病気には、多数の変異だけでなく、環境との相互作用もかかわっているものもある。これも、量子コンピュータが必要になりそうな要因と言える。

こうした変異がどのように疾患を引き起こすのかを分子レベルで解明するには、量子コンピュータの力を最大限に発揮する必要があるだろう。特定のタンパク質の異常が遺伝子疾患を引き起こす分子的なメカニズムがわかれば、そのタンパク質を作り出す遺伝子を改変したり、より効果的な治療法を見つけたりすることもできる。

 

 

ピートのパラドックス

 

 

しかし、ここからがんにかかわるパラドックスも生まれる。オックスフォード大学の生物学者リチャード・ピートは、ゾウについて奇妙な事実に気づいた。ゾウの体は巨大なので、はるかに小さな動物に比べればがんにかかりやすいと思うはずだ。そもそも、体が大きいほど、多くの細胞が絶えず分裂し、がんなどの遺伝子のエラーが起こりやすくなるのではないか。ところが驚いたことに、ゾウのがん発生率は比較的低い。これがピートのパラドックスとして知られるようになった。

動物界を調べると、この現象がいたるところで見られる。がん発生率は体重と対応しないことが多い。その後、ゾウはp53 遺伝子を20 個もっていることがわかった。ヒトは1個しかもっていない。このようにp53 遺伝子を余分にもつことと、LIFという別の遺伝子をもつことの効果が合わさって、ゾウはがんにかかりにくくなっていると考えられている。そのため、p53 やLIFといった遺伝子は、大型動物でがんを抑制する働きをするようなのだ。

だが、話はこれで終わりではない。たとえば、クジラはp53 遺伝子を1個とLIF遺伝子を1種類しかもっていないのに、がん発生率が低い。すると、クジラはきっと、科学者がまだ見つけていない、がんから身を守る別の遺伝子をもっているのだろう。じっさい、大型動物が高い割合でがんにかかるのを防ぐ遺伝子は、たくさんあると考えられている。一部のサメも、進化によって与えられたなんらかの遺伝的な強みをもっているようだ。ニシオンデンザメは最長で500年生きるが、それはまだ知られていない遺伝子のおかげなのだろう。

「がんを防ぐ方法を進化がどのように見出してきたのかがわかれば、それをがんの予防法の向上につなげられる望みがあります。大きな体をもつように進化した生物は、ピートのパラドックスにかかわるさまざまな解決策をもっています。自然界には、がんを防ぐ方法を教えてくれる発見が山ほどひそんでいるのです」と、動物界のp53 遺伝子を研究してきたカルロ・マレーは語る[3 ] 。そして量子コンピュータは、こうした謎めいたがん抑制遺伝子を見つけるのに役立つことになるのかもしれない。

がんとの戦いで量子コンピュータが役に立つ状況はたくさんあるだろう。いつか、リキッドバイオプシーで、腫瘍ができる数年から数十年も前にがん細胞を検出できるようになるのだろうか。いずれ量子コンピュータで、全人口を対象にトイレを使ってがん細胞の最初期の徴候を調べ、最新のゲノムデータを国じゅうから集めた巨大な貯蔵庫が作れるようになるはずだ。

一方、がんができてからでも、量子コンピュータによってわれわれの免疫系を修正でき、何百種類ものがんを攻撃できるようになるかもしれない。遺伝子医療、免疫療法、量子コンピュータ、CRISPRを組み合わせれば、分子レベルの正確さでがんの遺伝子を切り貼りでき、死に至ることも多い免疫療法の副作用を減らせそうだ。さらに、p53 など少数の遺伝子が大多数のがんに関与しているかもしれないので、遺伝子医療に量子コンピュータで得られた新たな知見を組み合わせて、がんをただちに食い止めることができる可能性もある。

リキッドバイオプシーや免疫療法など、がん治療における飛躍的な進歩を受けて、米国大統領ジョセフ・バイデンは2022年、「がんムーンショット」計画を発表した。今後25 年間で、がんによる死亡率を50 パーセント以上減らすという国家目標である。バイオテクノロジーの急速な進歩を考えれば、これはまったくもって達成可能な目標だ。

このテクノロジーを用いることで、完全に治せるがんは増えていくとしても、がんのでき方は非常にたくさんあるので、おそらく今後もわれわれはなんらかの種類のがんにかかるだろう。だが将来は、がんを風邪のように予防できる困りものとして対処できるかもしれない。一方、次の章で検討する新しいテクノロジーの強力な組み合わせによって、病気に対する防衛線がさらに築ける可能性もある。AIと量子コンピュータによって、われわれの体を構成するタンパク質を人為的に設計できるようになるかもしれないのだ。すべてが合わさると、不治の病を治し、生命そのものを作りなおすこともできるのではないか。